『私の愛(いと)しい記憶たち』

 

昨年、私の20歳からのバレエ人生を振り返る文章を書いたが、今度は明美個人のプライベート、特に幼少の頃から20歳頃までをたどってみることにした。

 

まずは父と母のなれそめから始めたいのだが、本当のところ、あまり詳しくは知らない。父は長崎大村市の出身で、代々家老頭家系で、当時お城に住んでいた。通学するのに松林を通らなければならず、その時の城主が頭のおかしい人で、いつも天守閣から松林に向かって弓を射るので、何度も危ない目にあったことを聞いたことがある。

父は大変眉目秀麗、頭脳明晰で、当時、近衛篤麿(戦時中総理大臣を務めた近衛文麿の父君)がその時代、世界を結ぶ経済の一大中心地であった中国・上海で国際環境を直視しつつ、日中の共存共栄のため(現在ではとても考えられない)必要な人材を養成するため上海に東亜同文書院を設立し、日本国内から一県に一人として長崎県から選ばれた。

卒業後の就職は、当時「国立横浜正金銀行」に決まっていたが、同期生の一人にその頃のいわゆるアカがいることが判明し、全員就職が取りやめになった。

【付記】横浜正金銀行・・・1880年(明治13年)に国立銀行として設立。幕末に横浜が開港して以来、外国との貿易・金融の専門銀行となる。後の東京銀行の前身。

 

仕方なく父は、上海に常駐していた陸戦隊の通訳官をしていたが、それではあきたらず、外務省外交官の試験を受けることにした。

どういう経緯(いきさつ)かわからないが、大分県中津市の旧制中学の英語と数学の教師をしながら準備の勉強をしていた時に母と出逢ったようである。

母は、父との結婚に至った経緯は一度も話してくれたことはなかったが、当時二人は中津中で評判で、昭和6年、新婚の様子の写真が地方紙に大きく載っていて、その時の写真は古いアルバムに今も残っている。

母は中津奥平藩の歴代殿医頭の大江家に育ち、中津市では才色兼備と当時のモダンガールとして、当地では有名であったらしい。その二人の間に生まれたのが明美である。

【付記】大江氏は九州の大富豪で大江卿として広大な土地を有していたが、その丸山城を黒田官兵衛に攻められ、その土地を提供してその部分が中津となった。元祖は1336年山城国藤原氏備中守孝範、清少納言の清原氏も一族である。

 

 

私は風光明媚な土地、滝廉太郎作曲の「荒城の月」の竹田城のある竹田市で生まれた。昭和9年である。当時両親から滝家との付き合いがあった事を聞いている。

父は間もなく同文書院時代の中森教授に、日中の発展のため日華油脂株式会社で活躍するよう乞われ、それ以来42才で亡くなるまで実業界で中心人物として奔走し活動していた。

【付記】中森教授は私が50代の頃、能とバレエの融合の舞台を制作した時、ご一緒に協演して下さった人間国宝能楽師・中森昌三氏の伯父上でいらした方。

 

父は小倉支店に在籍しながら、戦火に焼かれた中国の工場の再建に奔走していたが、世界情勢に危惧を抱いていた母は中森重役の元に再三再四訪ね、父を日本に帰して欲しいと陳情していたと云う。その甲斐あって父は間もなく帰国したが、その半年後に太平洋戦争、いわゆる第二次世界大戦が始まったのだった。幼少だった私を水の違う国に連れて行きたくないという両親の判断で家族で中国に行っていなかったことも幸いした。でなければ、私たち親子は引き上げ者になっていたかもしれなかったのだ。母の勘の鋭さと行動力には周りから拍手喝采があがった。戦後父は東京支店にてGHQに日参し戦後の日華油脂の発展にかかわり、遂に過労にて2週間の入院の後、あえなく亡くなった。当時は全く治療法がなかった「急性骨髄性白血病」だった。

 

 

小倉時代の私はミッションスクール西南女学院、良家の子女ばかりのお嬢様学校で、小高い丘の上に建つ校舎はアメリカ系の学校らしくモダンな建物が建ち並び、通学するのも楽しい毎日であった。中等科を卒業して、東京に別れて住んでいた父の元へ母と共に上京し、編入試験で学習院女子部高等科に入学した。試験当日、父と運転手の運転する車で女子部に向かう途中と、それから待合室でも父はずっと英語のおさらいをしてくれていて、父の死後、その有様を一緒に受験した学友たちに印象的だったと聞いて私は涙を禁じ得なかった。

父と杉並区永福町の家で暮らしたのはたった二ヶ月余り。母と私はあっという間に残され、お手伝いと女ばかりの3人暮しになった。その時代、白血病は毎日輸血しか治療法がなく、当時(昭和25)輸血は血を売りたい人が直接病院に来て採血をしていたため、母はその都度アロハシャツの若者等から血を貰うのが耐えられなく、と言ってもO型の父には母も私も合わなかった。会社の女性事務員が唯一適合していた人がいたが毎日は当然無理で、それでも体格のいい人だったため医師の判断で週2回は貰っていたが、それだけでは間に合うはずがない。そこに丁度病院に「庭のいちごが取れましたので旦那様に」とお手伝いの花さんがやって来た。「花さんはどうかしら?」と母が言って、医師がすぐに採血してみたらO型だった。みんな大喜びでその夜8時ごろから輸血が始まったが、入れた途端に父が苦しみ出して夜中の4時まで苦しみ続けて息を引き取った。父の会社では医療ミスではないかと訴えると騒然となっていたが、医師である母の兄と弟が上京してきて(亡くなった朝に病院に着き、父と私たちは永福町の家に帰った後だった)騒ぎ立てても死んだ人は帰らないのだからと静めてくれた。その判断は良かったと思う。いつまでも苦しみ続けても父は帰らない。

しかし、それからその後の花さんは自分の血で旦那様が亡くなったという事に苦しみノイローゼになってしまい、夕方になるとしばしば外をさまよい歩くようになった。母が暗くなるまで探しまわっていた。私たちの家は薔薇屋敷と言われた程、薔薇に囲まれてい.300坪の敷地に全てがドアで仕切られた洋館だったので、花さんの精神的な苦痛を軽くするため、1年半後、荻窪に住んでいた母の叔父夫婦の家に引っ越した。日本建築の広い家で、二階に叔父たちに住んで貰って、一階全てを私たち3人が使うことになった。広い日本庭苑が長い廊下から眺められ、とても快適な住まいで花さんはすっかり正常を取り戻した。

それから半年後、世田谷に建売住宅を買い、3人で快適な生活を営むことになった。

 

 

母は明治42年、大江家の三女として生まれ、大分県立中津高等女学校を卒業して、その頃のいわゆる花嫁修業でお花、お茶、お作法、お琴、お裁縫等は当たり前の女性だったが、反面とても時代に先駆けて積極的に行動を起こしモダンな感覚を実行し、当時学校では初めて洋服を着て靴をはいた一人者だったと云う。常に明るくふるまいクラス中の人気者で大変人に好かれていたと後に学友の方々から聞かされていた。容姿も日本人離れしていて、当時はマレーネ・ディートリッヒに似ていると評判だったらしい。卒業後は、東京から音楽家をお呼びして音楽会を開いたりしていた。黒柳徹子さんの父君・ヴァイオリニストの黒柳守網氏やオペラ歌手・四家文子氏等をお呼びして、ご一緒の記念写真が古いアルバムにある。

【付記】黒柳守網・・・NHK交響楽団のコンサートマスターを務めたヴァイオリニスト

 

大江家は城の大手門からまっすぐのメイン通りに何百年前からの200坪の家があり(昭和10年に建て替えた)、お籠で登城していた昔が偲ばれる。奥にある土蔵には、その時代のお籠が吊るされているのを、小さい時に見た覚えがある。頼山陽が耶馬渓を訪れ、その景観に感嘆し「筆捨ての岩」と云った言葉は有名だが、その旅で体調を壊し(風邪を引いたと伝えられている)、大江家に入院したという話が伝えられている。そのお礼にと自筆の書画が何枚かあったというが、今は幻の如く消え去っている。大江家といえば今から七代前の先祖、世界レベルで有名な蘭学者・大江春塘がいる。国内に7冊、オランダのライデン大学に今も残る「バスタード辞書」の編纂者だ。1822年頃である。当時のライデン大学では教科書として使われ、春塘の名は広く知られていたという。かつて昔、母とその本を訪ねて福井や金沢の図書館などで180年程前の実物を手に取った時の興奮と熱い思いを体験したことは忘れられない。

 

 

父が中国に赴任中、4才から5才の私は母と大江家で過ごしていた。お祖父さまもお祖母さまも健在で、特にお祖母さまは孫として女の子は一人だけだったので、私は大変可愛がられた。しかし鵬翼祖父は大江家では雲の上の人で、出入りの人含め皆「御前様」とお呼びしていた。その頃、年上の一則という従兄がいたが、二人とも口もきけない存在の人であった。

大江の家は奥行き30間という長方形の敷地で、①前庭、②泉水の庭、③耶馬渓を模した庭、④灯籠の庭と4つからなり、表側は洋館で診察室になっており、そこから奥はそれぞれの庭をはさんで座敷があった。耶馬渓の庭は広く廊下も長い。その奥の座敷で一則兄ちゃんと寝そべってお菓子を食べながら「のらくろ」の漫画を見ていたところ、鵬翼祖父が歩いてくるのが見えたので、二人はあわてて居住まいを正して近づいて来た祖父にお辞儀をしたが、祖父は一瞥を与えたきりで私たちを通りすぎ、奥の二階の居室に上っていってしまった。お菓子を食べながら漫画を読んでいた私たちの状態が気に入らなかったのであろう。この時の情景は今でもはっきりと目に焼き付いている。

後年になってからの事。威厳があって側にも寄れない、口を利くことも出来なかった私の祖父、鵬翼。日本が戦争に負けて世の中が一遍に変わってしまってからすっかりお変わりになった。私たちみんなに優しく身近に接するようになり、庶民的になったのだ。居室で読書三昧であった祖父が母の誘いで小倉の我が家に何週間か逗留なさったのだ。その時の貴重なツーショットの写真。私にとっても大切な写真の一枚である。

祖父は医者の傍ら高尚な趣味を持ち、中津城址に残っていた能舞台でシテを務め、祖母や息子たちの囃方やお仲間と能舞台を奉納していた。京都から能楽師を招き、何日かかけて準備したと聞く。絵画にもすぐれ、各座敷の襖にはまるでお城の内のように見事な絵が沢山描かれていた。襖大の大きさの屏風を開くと、そこに現れたのは一面に御所車いっぱいにつみ込んだ花々、百花繚乱とはこの事を言うのだろう。その見事さに子供ながら目を奪うような美しさに見とれていた。

又、自作の石膏像等も多く飾ってあった。随行員と狩りにも出かけ、猟犬も何匹も飼っていたと母に聞いたことがある。二階の居室から広いベランダがあり、数多くの盆栽が置かれ、バラ、ツツジ、菊など満開の時期の花々に囲まれた祖父の写真が大きく地方紙に紹介されていた新聞の切り抜きを見たことがある。

大分県と福岡県の境の小山の上に別荘があった。大江家では四季折々に月見の宴、雪見の宴、花見の宴が催されていたと聞く。私の時代は、家屋は放火により跡形もなく失くなっていたが、お城の城壁のような大きい石を積み上げた石垣はしっかりと残っていて、その上には白い造りの武者窓があった。

その石垣は7、8mの高さがあり、下から山の頂上まで上ってゆくと趣向を凝らした庭が上まで続き、裏側は池があって自然に囲まれていた。一則兄ちゃんと何度か昆虫や蝶など採集した記憶もあり、懐かしい思い出だ。

中津は夏の祇園祭りが有名で私も楽しみの一つだった。大江家はメインストリートにあるので、何台ものおぎょん車が通って、二階部分に乗った若衆の笛太鼓の囃しで一日中チキチンコンコンと賑やかだった。特に大江が寄付をしたという車は、必ず門前に停まって舞台部分で日本舞踊が披露される。小さい私にはたまらない楽しみだった。後年、小倉で父と3人で暮らすようになってからも、小学校の夏休み、冬休み、春休みは一人だけ大江で過ごし、この夏のおぎょん祭は私の最高の楽しみの大イベントだった。

日本舞踊と言えば、その頃、私は日本舞踊を習っていた。お祖母さまが料亭に部屋を取り友人がたを呼んで、私の日本舞踊を披露するのが唯一の楽しみのようだった。母も曲に合わせた衣裳をあつらえてくれたりした。後年バレエ一筋の人生を送る私にも、こんな思い出があるのだ。

中津は海に面しているが、市中からは遠く、その代わり山国川という大きな河は近く、一則兄ちゃんと何度か水遊びに行っていた。ある時、二人が大人のボートに乗せてもらっていた時、ボートがひっくり返り、二人は河の中に投げ出された。水の中から岸辺で付き添ってきていた書生の松野が立ち上がってこちらを見ているのが一瞬見えて、これで助かったと思った記憶が目に焼き付いている。その頃、大江は通帳を使っていて、私は女中に連れられてそれを持っていけばお店でなんでも好きなものを買うことができた。そんな時代だったのである。

4~5才にかけて2年余り大江家で育った私の幼少期は、幼い乍らも沢山の経験を通して視野や見分を広めていった貴重な時だったと思う。

 

小学校に上がる頃、日本は中国各地で戦争を起こし勝利をあげていたが、国内では不穏な空気もなくはなかった。小倉市の私立の優秀な学校は電車通学だったので、両親の考えから5分以内で歩いていける市立の日明国民学校に入学することになった。住んでいた緑が丘は小倉では高級住宅地とされていた。名前のごとく丘に豪邸が建ち並び、稲城の家はその中腹にあり、二階からはるか遠く玄海灘が望まれた。すぐ近くにNHKの小倉放送局もあった。2年生の時、夕方の子供の時間に七夕様を独唱してNHKから放送されたことがあった。

戦時中はなぜか私の家は物資に困らずにいたが、空襲は毎日のようにあった。小倉は広島の次の原爆投下の候補地ということであったらしいが、当日朝、機上からの視界が悪く断念して長崎投下になったと、終戦後しばらくたってから聞いた。小倉の隣の八幡市には軍需工場の八幡製鉄があり、そこが標的にされたという。緑ヶ丘のさらに上の山に高射砲陣地があり、沢山の兵隊さんがいた。その中腹の、町内で横穴の防空壕を掘り、その中には縦横に各家々の部屋が作られてあった。みんなその中にベッドや衣類、缶詰等食品が持ち込まれ、もし家が焼けても当分の間生活が出来るように準備されていた。空襲警報が鳴ると各家庭の子供たちはそこへ避難していた。大勢集まったことでみんな壕の中で騒ぎまわっていた。敵機襲来で私たちの頭の上で高射砲から襲撃が始まり、命中して敵機は落ちていった。子供たちは防空壕の入り口に集まって空を見上げ、その様に歓喜の声を上げていた。今思うと、戦争体験の時の子供の精神状態は普通ではなかったと思う。

私は小学校1年生12月に大東亜戦争が始まり、5年生8月に終戦をむかえた。小学生の間5年間は戦時中だったのだ。ラジオで聞く戦況には子供ながら一喜一憂していたが、女学生のお姉さんみたいに、軍需工場で、女子挺身隊としてお国のために働きたいと、常々思っていたが、小学生のためお役に立ててくれる訳がない事を、もどかしく思っていた。

と、或る日私たち小学生にもお仕事がまわって来たのだ。兵隊さんの洋服のボタン付けだ。喜び勇んでそのボタン付けに没頭して、ひとかどのお国のお役に立ったと意気揚々として励んでいた。その頃は大きくなったら戦場の兵隊さんを助ける従軍看護婦になりたいと真剣に思っていた。

小さい時のバレリーナになる夢は、その時には煙のように消え失せていたのだ。

母は戦時中ももんぺを嫌いスカートのワンピースを着ていて周りから白い目で見られることもあったが、平気な顔をしていた。そして「この戦争に日本は負ける」と誰はばからず言っていたので、その都度父は困ってたしなめていたのを憶えている。母は怖いもの知らずで奔放な女性だったが、節度はわきまえていた。

終戦まで緑ヶ丘は無事であった。

1年から6年まで、級長に選ばれ「学業優秀、操行善良、健康優良」という一等賞を毎年頂き、卒業の時はただ一人市長賞を頂いた。そこまで私は全く勉強していなかったのに。一年生の時になんでも稲城さんと周りからお墨付きをいただいていたのが当たり前になっていたのだ。

6年生の時、そろばん大会が市内で行われ、日明国民学校からも参加することになり何人かが選ばれていたが、先生同士のコソコソ話を聞いてしまった。「稲城はそろばんは今いちだが、出さないわけにはいかないだろう」・・・出していただいた稲城は暗算で1位、そろばんでも3位を取った。先生方はさぞびっくりなさっただろう。

やはり6年生の時、どういう訳か60メートル短距離選手に選ばれた。毎日のように放課後に練習があり、タイムを計りそこなった先生に「もう一度」と言われ、息が切れていたが必死で走り、ゴールに着いた時に倒れてしまった。その頃貴重だった生たまごを持って運動場を一緒に走りながら応援してくれた母の姿は忘れない。九州大会に出場してオール九州1位を勝ち取った。なんと私は本番に強かったことか。

こんな思い出もある。2年生の時、6年生の男子生徒当番の管制がお掃除の見回りに来た時に副級長と対面し、お掃除の仕方が悪いと指摘されてそれに反発したところ、その上級生が怒って机の蓋を投げつけた。もちろん、私たちに当たらないよう投げたのだが、私たちは担任の先生にそのことを言いつけたのだ。その男の子は6年生の担任の男性教師に殴られ(戦時中だったので)前歯が折れたと後で聞いた。その男の子は誰あろう、晩年になって結婚の約束をしながら病に倒れ亡くなって果たせなかった婚約者・陽ちゃんなのだ。人の人生、運命とは測り知れないものだとつくづく思い知らされた。

 

 

その頃、県立小倉高等女学校という優秀な女学校を受験することを父は望んでいたが、633制になり、中学3年まで義務教育、高校は3年で受験になった。中学は誰でも上がれたし男女共学ということで父はそれに反対し、西南女学院という私立を受験することになり制度変わりで受験の応募は多かったが、日明校からは4名だけ試練をくぐり抜けた。緑ヶ丘から川沿いに歩けば15分程度の所を、わざわざ市電を2度も乗り換えての通学は楽しく到津という丘に建つアメリカ仕込みの瀟洒な校舎での学生生活は、戦後であるにもかかわらず夢のようであった。

西南女学院時代の音楽の今西先生の事を忘れてはならない。

私は今西先生引きいるコーラス隊に入っていた。毎朝、山の上のシオン山教会の朝礼で、讃美歌を歌うのも清々しい気分だった。

中腹に音楽館と云うアメリカ風の白い建物があり、そこで度々コーラスの練習をしていた。指導は勿論今西先生だ。福岡で催された合唱コンクールにも何度か出場していた。今西先生はプロではなかったが、アマチュアとしては名の知られたバリトン歌手だった。

今も楽しく思い出すのは、修学旅行で雲仙から長崎に渡る船のデッキで、生徒達はくるま座に座り、その真ん中に今西先生が立って、ロシア民謡のステンカラージンを声高らかに歌った。私達はみんな肩をゆらし合いながら、うっとりとして聞きほれていた。

この光景は、まるで映画のワンシーンのようにはっきりと思い浮かべる事が出来る。

しかしこの3年間もたいして勉強をしなかった。緑ヶ丘は何軒か進駐軍の家族のために接収され、父は英語が堪能であったためパーティなどに招待されていた。そのため、アメリカの子供も遊びに来ていたので、私もブロークンで英語をしゃべっていた。なまじっか英語がしゃべれていたのでちゃんとした勉強もせず発音が良かったので、西南女学院では英語劇などにも出ていたが、小学校時代からいつも成績優秀だったため、親は特に側にいた母には一度も勉強しなさいと言われたことがなかった。

 

 

高等科は東京で学習院の編入試験を受け、少数の人だけ入学した。2ヶ月後に父を亡くした。が、母は持ち前の明るさとおおらかさで寂しい思いはせず、母は若い男性に慕われ、いつも何人かが集まって来て、ピアノを弾く人、ヴァイオリンを弾く人様々で賑やかな日々が続いた。父はバレエを習うことには反対だった。「女の子が足など上げるものではありません」と、モダンな感覚と外国生活の経験があるにもかかわらずだ。しかし父の四十九日の法要の後に、母が「バレエを始めてもいいのよ」と云ってくれて一気にバレエへの道を歩むことになった。それに関連しての事柄をひとつ。私が赤ちゃんの頃から大きくなって‟がに股“になってはいけないと、両親は決しておんぶはしなかったと云う事だ。そしてずっと子供に合った椅子を使い、決して正座をさせなかったと云う。お陰で私はバレエに適した真っすぐなきれいな足に育った。しかし皮肉にも私の股関節の異状には気が付いてくれていない。もっとも障害が大きく現われて踊り手を断念せざるを得なかったのは30才過ぎだったから仕方のない事だ。

 

 

母との思い出をひとつ。最近「哀愁」という映画をテレビで見た。ロバート・テイラーとヴィヴィアン・リーの戦後私が中学生の頃に見た白黒画面の美しい映画だ。2人がキャンドルクラブで踊っているシーンで、閉店時にバンドの別れのワルツ(蛍の光)の演奏が始まり、バンドマンの前に立ててあったキャンドルを1小節ずつバンドマンが消してゆき、曲の最後に残った一本のキャンドルが消されて二人のシルエットだけになるというシーンが印象的だった。小倉の家は応接間とリビングが部屋続きで広く、母の趣向で照明を凝っていて何か所にも壁や柱に照明ランプが取り付けられていたので、その映画のシーンをまねて「蛍の光」の曲をかけて次々と消していってしんみりとその雰囲気を楽しんでいた事を思い出した。

 

 

永福町では母とクリスマスに教会に行ってみた。そこで出会った高校生数人で牧師さんが高校生会を作って、私の家の応接間に集って親睦会を行なったり、小仏峠にハイキングに行ったり、その中の一人、村田謹一郎さんの葉山の別荘に皆で行き一色海岸で泳いだり、とても楽しい会だったが私が荻窪に越してから自然消滅してしまったようだ。それでもその中の同じ高一で永福町のご近所だった謹ちゃんとはずっとお付き合いは続いている。現在令和になってもそのお付き合いは続いている。何度も歌舞伎にご一緒している。謹ちゃんはひ孫も持つ幸せな会社の社長さんである。

 

 

さて、学習院での毎日はミッションスクールと違いとまどうことも多々あったが、伝統と格式ある校風には徐々に順応してゆき、すぐに新しいお友達も出来た。その頃の女子部には宮様方、旧宮家の方々、旧華族の子女が多くいらした。歴史上の祖先を持っていらっしゃる方々もいらした。卒業以来現在まで厚い友情が続いているオグこと小倉宮子さん。お父上は昭和天皇の侍従でいらして、結婚なさった夫君も学習院高等学校出身のお医者様、佐藤蕃ドクター。歴史ある順天堂直系の長男でいらしたのに順天堂の名を借りずに医師の道を歩きたいとの一筋を貫いた方だ。オグとお人柄の立派なご夫婦で、母の主治医になっていただき母と共に親しいお付き合いをさせていただいていた。10年前に母は亡くなり蕃先生も近年亡き人になられた。この文章を書いている今日こんにち2月22日は蕃先生のご命日である。謹んでご冥福をお祈り申し上げたい。

私の高校生と云えば昭和25年から28年の頃になるが、終戦5年以上たっていたにもかかわらず、東京では敗戦の影は大きく残っていた。

父と三人で初めて銀座に出かけた時の印象は、駐留軍のGIが闊歩して歩いていた光景とは反対に、大きなゴミが風に舞っていた数寄屋橋あたりが目に焼きついている。

通学は山手線であったが、車内を白衣を着た傷病兵が箱を持って乗客に頭を下げて廻っていた光景等、現在私たちの年齢でなければ想像も出来ないだろう。

そして乗客達はその箱にお金を入れる人はあまりいなかった。

私は自分ではお金を持っていなかったので、それを見過ごす事が出来ず、その白衣の姿がやって来るのを見ると逃げまわっていた。その頃の省線は連結が開いていて、次の車両に逃げる事が出来るのだ。そして停まった駅のホームに降りてホッと胸をなでおろしていた。

その頃の私は親からお金を持たされていなかった。その代わり欲しい物は何でも買ってくれていた。新宿西口では、片腕や片足のない白衣の傷病兵が道端に座っていた。やはりその前には小箱が置かれていた。人々はその前を見ながらただ通り過ぎていた。私はその姿も見るに忍びず、遠まわりして避けて歩いていた。

両方に共通する事は、みんなそれぞれがギターを弾きながら唄っていた事だ。

現在のストリートミュージシャンとは、まるで訳が違う。

 

学習院の学生生活はとても楽しかった。毎年の運動会や目白本院での文化祭。文化祭では貴重な思い出がある。広い運動場の隅にトイレがあった。私がそこへ向かった時、入り口である方とぶつかりそうになって、あらあらとお互い声を出していた。そしてハッとした。出ていらした方はなんと皇太子殿下(現上皇陛下)でいらしたのだ。私たちの一級上でいらした。恐れ多いいい思い出である。

沼津へのお遠足、甲府へのぶどう狩り、夏休み希望者のみの霧ヶ峰への2泊旅行、生物の土手先生、体育の外山先生、社会の徳大寺先生とご一緒だった。徳大寺先生がお一人で相模湖でボートに乗ってらっしゃるお姿を私が撮った幾枚もの写真がある。私たちは陰では「徳さん」とお呼びしていた。貴族的な風貌のある素敵な先生で、私たちに親しくして下さる私の大好きなあこがれの先生だった。

2年生の時、3年生を送る会に私は「始めての舞踏会」という一幕物の仏劇に出演したことがあった。私が初めて舞踏会にゆく娘の役で、お母さまが大場ゆかりさん、おばさまが荒井八重子さん、そしておばあさまがオグこと小倉宮子さんであった。その3人が娘の舞踏会に出席する準備で大騒ぎする喜劇である。あゝなんと懐かしい事か!

それから修学旅行での沢山の思い出。景勝地二見ヶ浦、伊勢神宮、五十鈴川の水は見るからに清らかだった。奈良・京都・須磨・明石の6日間。東大寺の大仏様の大きさにびっくり。唐招提寺、法隆寺。春日大社は女子部の大先輩がお嫁ぎなさっていて、そのご本人が私たちを迎えて下さった。とても上品でおきれいな方だった。

奈良でのホテルは現在4つ星のあの奈良ホテル。京都では何人かで夜の京都を見物していたら道に迷ってしまった。皆、宿の名前を思い出せない。困って交番で「学習院の泊まっている宿を教えて下さい」と云ったら、警官は即座に答えてくれて案内してくれた。それにはびっくりした。

その頃は宮内庁の許可がなければ入れない修学院離宮、借景の庭々が美しく幽玄の美を感じさせた。苔寺として知られている西芳寺は雨に濡れていた。竜安寺の石庭は声も足音もたてたくなかったほど静寂だった。京都御所は源氏物語を彷彿とさせた。西本願寺の立派さには圧倒された。まだまだ沢山の名所旧跡に行ったが全部は憶え切れていない。後年京都には何度も旅したのでこれ以上書くと記憶がごっちゃになりそうになるのでおしまい。

 

 

ここでひとつ告白がある。誰にも話さず秘密にしてきた高三の夏休みから卒業した年の初夏の頃までの懺悔を最近になってふっとオグに話してしまった。それは私たちが高一の時に赴任なさっていらした教育大を卒業したての男性の国語の先生とのことである。

私は文学が好きで小学校から漱石を読んでいた。訳もわからずであったと思うが、ただ「虞美人草」の藤尾や「三四郎」の三彌子に惹かれ、あのような女性になりたいと思っていた。白秋の詩の「落葉松」は長い全文をそらんじていて、ヘルマン・ヘッセも好きであった。いわゆる今で云うオタク文学少女だったのだ。

ある時、その先生のお授業の時、「落葉松の林を過ぎて・・・」を朗読して先生に褒められた事があり、その事で先生から注目され、私もその先生を意識するようになった。高三の夏休みに読んだ本の読後感等その先生にお手紙をお出ししていた。先生からもその私の手紙への感想を下さるようになっていた。

文通は続いた。そして私はついに卒業する時が来て、その頃は読後感のやり取りなどでの内容ではなくなっていて、学校で逢えなくなったらどうすればよいと云うことになった時、先生が「もう先生と一生徒との関係ではなく唯はばかりなく、例えば二人で銀座を歩いても一緒に食事をしてもかまわなく付き合ってゆける」というお手紙をいただいた。その時、私の中に熱い思いがあふれ始めて、経験したことのない高揚感を覚えた。それから何度もお逢いしたし、文通も続いた。先生はその年の高三の修学旅行で引率をしたのでお土産を買ってきたから逢う日と場所を貴女に決めて欲しい、それとは別にお母様にご挨拶に伺いたいのでその日も決めて欲しいと云うお手紙をいただいた。その時、私たちがそこまで事態が進んでいることにとまどいと恐ろしさを感じた。まだそれを受け止める事の出来ない幼さの残る私だったのだ。私はお返事を遂に出しそびれてしまった。今でも二人の文通の手紙は大事に取ってあるが、それを見る度に私はなんと残酷な、人の心を傷つけるような事をしてしまったのかと申し訳ない思いで一杯だ。その先生は何年か前に亡くなられたそうである。

 

 

もう一つは思い出してもほのぼのとするような懐かしい思い出である。

女子部に入学して間もなく、永福町の門前で新しい表札を父と取り付けていた時、犬の散歩の学習院の制服を着た若い男性が通り過ぎた。私も制服を着ていたのでそれとわかり、目礼なさったので私も目礼を返した。ご近所の方らしかった。

学習院では皇室の関係のある祝日は全校生徒が目白の本院の広い運動場に集まり、整列して祝典をあげていた。当時の皇太子殿下、末の姫君でいらした清宮まで皇族方が生徒の列に対し斜め前に私たちに向かってお並びになるのが習わしになっていた。4月29日の天長節、その何日か経ったある日、ご近所の例の制服の男性と家の前で出会った時、声をかけられた。

「この間の式の時は車でお送りしようと思って正門の前でお待ちしていたのですよ」とおっしゃった。大学1年だそうだ。私は何とも言えない恥ずかしいような温かい気持ちが込み上げてきた。しかし、私はそのお式は体調がすぐれずお休みしていたのだ。その方とは時々通りすがりにお逢いするだけで、そのうち私たちは荻窪に越してしまったのでそれっきりになった。

学習院では毎年4月1日に明治記念館で園遊会を開いて、それが卒業生たちの出逢いの場になっていた。私も初めて出席した時に例のご近所様にお逢いした。久しぶりにお逢いした私たちは、帰りに二人で渋谷のカフェでお茶を頂いた。私も少しは大人になっていたので、永福町のことなどお話は弾んだ。それっきりだったが、翌年出席した時にまたお逢いした。帰りにご一緒に今度はお食事をした。

翌年も同じことが起きた。その日は朝から4月の雪になっていた。二人とも園遊会でお逢いすることを意識していることがわかり、「1年に1度の逢瀬なんて七夕様みたいですね」と笑ったりした。そして何年か続いたが、私はバレエの方が忙しくなり出席しなくなった。あちらの方はわからない。しかし年賀状のやりとりは続いていた。

私が50代になってチャリティーサロンを始めた頃、ふと思いついてその会にお招きした。素敵な立派な中年の紳士になっていらした。その時、ふとお顔が市川雷蔵に似ていらっしゃるのを発見した。その頃テレビで雷蔵のドラマを見ていたからかもしれない。それから今に至るまでお互い音信もなくお逢いしていないが、ただご近所だった教会の高校生会のメンバー・謹ちゃんから消息は聞いていた。しかしこの10年それも聞かなくなっていた。今度この文章を書くに当たって懐かしく思い出したが、私より4才上でいらしたから、もう90才になられた筈だ。お元気でいらっしゃるかしら?

 

私は一人っ子だったので、兄弟姉妹がいたらなあと常々思っていた。一級上に愛称ノムという方がいらして、その方は上品でおきれいで私の好みのタイプで大変憧れた。大胆にも靴箱にお逢いしたいとお手紙を入れた。願いかなってお誘いを受けた。映画にご一緒に行ったり、ノムのお宅に伺ったり、私の荻窪の家にも来て頂き、母とも対面して頂いた。水晶の首飾りや銀座和光のバレリーナのついた金色の小箱等(現在も大事に使っている)色々なプレゼントも頂いた。二人の事は当然クラス中の評判になった。

長いことお逢いしていなかったので、2年前久し振りにお逢いする約束を交わしたが、直後に私は脳梗塞で倒れ実現しなかった。今でもお逢いしたい気持ちはあるが、私は身体が利かなくなってしまったのだ。このところお互い音信不通になってしまっているが、お元気でお過ごしの事を願っている。

 

私には或る方にお習いしての特技があった。

高三の頃、私は土曜に選択科目で絵画を取っていたが、渥見先生からのご紹介でその方から教えていただいた白黒写真に油絵具で着色するという技術であった。その頃は写真も映像も全て白黒で、天然色カラーはその後ずいぶん後年になる。色付けは筆ではなくピンセットと脱脂綿を使って、場所によって加減して、大きく、小さく、細くちぎって塗る、たたく、ぼかす。父の遺影や母の写真等に色づけしてゆくのは大変な楽しみでどんどんハマっていった。その方は学習院の先輩で7才上の方で、京都の公家、愛宕家の長男・通基さんとおっしゃった。

はまりにはまった私は、卒業しても続けてゆき、遂にお仕事の助手にまでなった。弟お二人と小さい時からのばあやと4人で暮らしていらした高輪のお宅にはしょっちゅう伺っていたが、お座敷の床の間に本物の円山応挙の幽霊の軸が掛かっていて、気味悪く思っていたのを思い出す。

助手としてのお仕事は、羽田空港のロビーに飾られた富士山を背景に日航機が飛んでいる5m近くの白黒写真に着色をするという大仕事だった。それからしばらく経ってカラーになったNHKテレビドラマの背景に、昔の場面の再現に白黒の銀座の写真に着色したこともあった。

愛宕さんとは着色の仕事がなくなってからも私的なお付き合いとして、結婚なさった後もご夫婦共に長く続いた。

スタジオ新築祝いのパーティーや、私の主催するサロンコンサートにも度々来て下さった。私が60才で家を乗っ取られ、新しく借りたスタジオにお電話があったきり、現在までお互い音信不通である。一見、キザに見える独特なファッションを好まれていたが、それが嫌味でなく不思議にとても似合っていて身についていて、違和感はなかった。そしてお公家さんらしい風格もお持ちでいらした。亡くなったお母様は毛利家出身の方と伺っていた。もうとっくに90才を越えていらっしゃる筈だが、懐かしくお逢いしたい思いでいっぱいだ。

 

父が亡くなった後、永福町の家では会社の独身寮が満室になったため、新入社員の一人をひと部屋に置いてあげていた。京都大学を出たばかりの人で、その人の山口高等学校時代の後輩をつれて来て、ピアノを弾かせて下さいと頼まれた。

若い頃からのピアノを弾きたいが、東京の下宿ではピアノは勿論無い。その人は東大受験に失敗して横浜国立大の一年生だった。20歳のその人は華奢ではあるがスマートで繊細な感じの若者だった。特に手の指が細くてきれいな人だった。応接間からもれてくるピアノの音は、その頃ラジオしかなくテレビ等影も形もない時代であったので、家中が音楽に満ち溢れていて、その雰囲気は最高であった。レパートリーは豊富であったが、中でもベートーヴェンの悲愴ソナタが得意らしくよく弾いていた。だから私もその曲が好きになった。

その頃新宿の名画座で「第7のヴェール」と云う古いモノクロの映画を見た。

全篇流れていたテーマ曲が悲愴の第二楽章であったため印象深く、主役のジェームス・メイスンに夢中になった。今考えると、10代の高校生がいくら英国の名優と言えども、中年過ぎた俳優に夢中になるなど考えられない。が、その悲愴ソナタの影響なのだ。しかし今ふと思ったのだが、自分でも気付かないまま、悲愴ソナタではなく、

その曲を弾いていたその人に憧れていたのではなかったか?

私達女ばかりの家族では、その人に好感を持ち、親近感を持っていた。

母はとても息子のように可愛がっていた。

何年か過ぎ、その人はトンボ鉛筆に技術家として就職し結婚もした。お見合い結婚だったと云う。家庭を持ったその人は、もちろん新居にピアノを揃えた。

しかし、私達はその人とはピアノだけのつながりだけではなかったのだ。

以後私達とのお付き合いは変わらず続いていた。

後年、私とその人とは映画鑑賞のお付き合いが長く続いた。

「戦場のピアニスト」、アランドロンの「山猫」、岡田准一の「永遠のゼロ」等、忘れがたい映画の数々の思い出。しかし二年前にその人は亡くなった。

その人の山高の一年下であった映画監督・山田洋次の「母と暮らせば」の映画を一緒に見たかったのだが、とうとう果たせなかった。

周りの方がみんな次々と亡き人になってゆく。しかし数々の思い出は私の心の中では色褪せていない。

 

夕べ読み終えた本。漱石のお孫さんと結婚なさった、作家でありジャーナリストであり、特に昭和史に関し人物論などを刊行している半藤一利の「漱石先生ぞな、もし」と云う、漱石の小説それぞれのエピソードと、漱石の日常的な私など知るよしもない話と、ご自分の独得な見解を加えたとても興味深い面白い本であった。漱石の小説は小学校5年生頃から読んでいたので、今でも繰り返し読んでいる大好きな大作家先生だ。半藤氏の本に出てくる、今では歴史上の人物とも云える作家、文化人の数々がきら星の如くつらなる。それと漱石山脈と形容されるほどに多くの俊秀が門弟にいた。

その中、安倍能成は私の女子部時代の学習院院長でいらしたので身近に憶る。

小宮豊隆も後に院長になられた。

 今、彷彿と沸いた記憶に、父の葬儀の時に弔問に来て下さった女子部高等科長・古賀先生にたくされた、安倍能成から父に対するお悔やみの言葉を述べた信書が、今も我が家の仏壇の引き出しに大切にしまってある。

これは今となっては貴重な宝物である。

 

やはり一級上に、お付き合いはなかったが私のサイン帖にサインを頂いた時のオノ・ヨーコさんの今となっては珍しいお写真を持っている。ご本人から頂いたものだ。制服姿でピアノの前で歌ってらっしゃるお姿だ。女子部ではよくお見受けしていたが、今や世界中で知らない人はいないだろう。ここにそのお写真をご披露させて頂いた。

 

最後に今も文通が続いている下級生であった韓国の金彬さんの思い出。

高等科を卒業した頃、その頃各大学生主催のダンスパーティーが流行っていた。ご多分に漏れず、学習院も大学生によるダンスパーティーが開かれていて、私も参加したことがあった。そこで知り合ったのが男子部高等科3年生の金さん。とても人懐っこく可愛い下級生であった。

 それぞれお互いの住まいが歩いて行ける程近かったため、金さんは毎日のようにやって来た。お手伝いの花さんが「又お見えになりました」と私に知らせる程だ。彼は名前が示すように韓国の人である。中等科から男子部に編入してきていたが、彼の子どもの頃には韓国の情勢から男の子は国内においていては危ないという親の判断で、身内に日本の韓国大使館に大使がいたため、そのつてでその頃の学習院中等科に入ることができたという。彼はたった一人で釜山から東京まで来たという。まだ飛行機など就航していなかった時代である。

 ある時、些細なことから私の感情を害したため、「もう来ないで」と、私は大人げない言葉を発し、彼はその日からパタリと来なくなった。私はその事は後でとても気になり、きつい事を言ってしまったと後味の悪さは残っていた。

 2、3年後、新宿の通りで白いスーツを着た大人びた彼が歩いてくるのに出会ったが、お互い目だけ合わせただけで声はかけなかった。

 それから何十年も経った2012年の頃だったと思う。学習院同窓会誌の「桜友会報」にソウルで桜友会が開かれたという記事があった。その幹事の携帯番号があったので早速連絡してみたら、その人はすぐに金さんに連絡してくれて、金さん本人から私の方に電話が来た。それ以来、2021年現在に至るまで電話や文通が続いている。

彼はコロナ禍の今、出した手紙が戻って来たと電話で3通もの手紙を読んでくれたりした。

 彼は高等科から一橋大学へ進み、卒業後アメリカに留学しアメリカの大学で博士号を取り、20数年ぶりにソウルに帰り大学教授をしていたという。統計学が専門だった。(違ったかしら?) 金さんとは、間にブランクはあったが長年現在まで続いている貴重な友人・友情である。

 

 

 

《結びの章》

古い古い昔の思い出をたどってここまで書いて来た。不思議に小さい時の事を鮮明なシーンとなって鮮やかに思い出すことが出来たが、まだ書き残したことも、忘れていることも沢山あることであろう。

ひとつ今思い出した事がある。大江家の殿様的存在であった鵬翼祖父は贅沢な食通であった。時代劇に出てくるような高足のお膳に贅沢三昧のお料理をのせて、居室まで千里祖母が女中達と運んでいるのを見ていた。祖母はお料理が上手だったが、私の母も得意だった。和食は勿論、中華も洋食もレパートリーは豊富だった。

父は母の料理が自慢で、友人達を招いては母の料理を披露していた。

いつも母が私に話してくれていた事は「結婚した相手が、何も文句なしに造ってもらった料理をただだまって食べていたら、お嫁さんはいつまでたってもお料理は上手くならないのよ」と。

母は祖母の薫陶を得ていたから、私も母の影響でお料理は上手でいなくてはならない。幸い私はお料理が好きで、しかもおいしく出来ていた。

でも最後まで誰かのためにおいしいお料理を作ると云う環境にはならなかったのだ。

 

現在86才。まもなく6月の誕生日が来ると87才になる。あと3年で90才だ。

可成りの高齢だ。毎日おおらかな楽しい時間を過ごしている。愚痴は一切言わない。くよくよする事もしない。脳梗塞や股関節の事などない筈はないのだが。年齢は平気で人に言うが、本人は全く年を取ったことを意識していない。全くのポジティヴである。

 

 毎朝新聞のテレビ欄に見たい番組をマーカーで記す。ニュースや情報番組の他に気に入ったドラマをセレクトし、BSNHKは興味深い番組が一番多いが、日本の歴史の解明や、知らない未知の世界の探訪、ドキュメンタリーの映像、中でも昔見たなつかしい洋画はたまらない。残しておきたい洋画とその他の他局の見たい番組が重なった場合、どちらかを録画する。このところ増えてきたお笑い芸人の出るバラエティーは好きではなく、全く見ない。だけどジャニーズは好きだ。

それからバレエや昔の映画のDVD、私の振付作品をコンパクトビデオデッキでテレビ画面につないで大画面で見る。

 目が疲れてきたら、CDで音楽を聴く。CDはかつての職業柄二百枚以上あるから、色々楽しめる。脳梗塞で身体が不自由になり、これら全て大きいテーブルに手元で操作出来るよう電気屋さんにセットしてもらっている。天井近くに、左右にスピーカーを設置しいい音を楽しめている。

 それから私のいくつかの趣味の一つ、読書である。この所、読みたい本を注文して15冊以上たまり、これを読んでしまうまでは死ねない。 漱石の本は勿論、オグから拝借した「平家物語」原文、文庫本4巻、渋沢栄一の「論語と算盤」、今読んでいる「日本のいちばん長い日」。「積んどく」で終わらないよう、頑張って読まなければ。

【付記】「日本のいちばん長い日」・・・日本国はポツダム宣言受諾により、連合国から無条件降伏の勧告を受け入れ敗戦となった。昭和20年8月15日が終戦日となり、度々の御前会議により、昭和天皇の「自分の身はどうなろうと万民の生命を助けたい。国民を苦しみから救いたい」という聖断が下り、大御心(おおみごころ)のままに進む他なく、政府と陸海軍部閣僚たちの激論や苦悩、死に物狂いに右往左往し、日本の敗戦を伝えた玉音放送迄の一日を克明に綴った実話。半藤一利 著

 毎日のようにいろんな人達へのスマホでのメール、ライン通信、返信。これでほぼ一日が終わる。11時半にはベッドに入ることにしているが、それから1時間ばかり読書。朝8時起床。なんとか自分一人で身支度を整え、8時半にはヘルパーさんが来てくれる。

 私の一日は時間が足りないと思い乍らも充実している。

 

 

 終戦間もなくお店を開けたレコード店から、母がいち早くレコードを買って来た。それがなんとチャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」だったのだ。私の家にはその頃、スピーカーの大きい音の良い大きな電蓄があって、良く聞いたものだ。これは今思えば、私の将来を暗示するような出来事なのだ。

この母の買って来たレコード「白鳥の湖」以上に、私のバレエ人生に強烈な印象を植えつけられていた事がある。6歳の頃、母に連れられて見たフランス映画「白鳥の死」と云うパリオペラ座のバレエ学校が舞台で、生徒である主役のジャニーヌ・シャラが、その頃の明美の顔にそっくりだと周りから言われ、子供心に私は「大きくなったらバレリーナになる」と決めていた。

この映画こそ私の生涯を決定づけた原点だったのだ。

この度、今も交流を深くしているある生徒からフランス映画「白鳥の死」のDVDをプレゼントされた。1941年に日本公開らしく、丁度私が6才の時に見たようである。幻だった夢のようなそのパッケージに、主役の少女、パリオペラ座バレエ学校の生徒ジャニーヌ・シャラの写真が出ており、それを見るとなる程私の小さい時にそっくりだ。

 

 他のお年寄りに接することがあって感じるのは、人は、その人が生まれてからの人生全てが反映した老後になってゆくことが解った。

  私は生まれてからの環境、育ち、生き方、人生が反映して、悔いはないと思っている人生を形づくり、年齢を重ね年取った今の老後があるのだなあと、つくづく感じる今日この頃である。大満足!!

 

 

私の数ある大事な思い出の一つ。

私の大勢の研究生の事は今もって忘れ得ない。引退して7年になるが、最後の研究生、いやずっと昔の多くの研究生たちも今でも私の事を気遣ってくれている。

また遥か昔、昭和59年頃にお稽古に来ていた黒田直人さんという男性生徒との事は、今もずっと長年交流が続いている。彼は東京医科大学を出て、その頃は慶応大学医学部法医学教室に所属しながら東京都監察医をしていたという変わり種。

夕方レッスン時間近くになると、時々電話があり、「先生!事件です。これから解剖が始まりますのでレッスンをお休みさせて下さい」とかかってくる。

彼はとても育ちが良く、人柄も良く、優しい性格の私の自慢の生徒だった。

現在は福島県立医科大学法医学の教授をしていて、後2年で定年だそうだ。時の流れの早さを思うばかり。四季折々の福島名産物を送ってくれたりする。

 今も電話でなつかしい声を聞いた。

 

片づけをしていたら、4年ばかり前だったか、今もって交流のある元生徒たちに贈った礼状の下書きが出てきた。このコーナーに相応しいと思い、続けて載せることにした。

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 毎年私の誕生日を祝ってくれた歴史は、多分私の40代、虎ノ門ホールで発表会を開いていたころに遡ります。

 ある年、当日これから舞台稽古の通しが始まるという時に、客席のマイクの前にスタンバイしていた私の耳に、突然スピーカーから、何人かの声で「先生、お誕生日おめでとうございます!」と聞こえて来ました。そして私の席にプレゼントが届きました。

 

なんと感動的だったのでしょう。嬉しくて涙がとめどなく流れました。

 

その年以来、毎年次々と代が変わっても、何らかの形で必ず祝ってくれました。

 

そして去年とは又違う年代の今回の皆さんたち12人に会えて祝っていただき、

しかもサプライズ的な演出までして私を驚かせてくれました。

 

 しばらく振りに会えた懐かしい皆さんたち。60年続けてきた研究所を閉めてから3年が過ぎ、私も83歳になりましたが、バレエを教えてきて本当によかった。こんなにバレエの思い出を共有でき、こんな至福の時が持てるなんて、なんと感無量でしょう。

なんと冥利に尽きるのでしょう。

 本当にありがとう。心よりお礼を申します。

 

私とバレエと皆さんとの絆の偉大さをあらためて深く感じています。

皆さんからの愛を感じ、又私からも皆さんへの愛の心を贈ります。

皆さんのこれからのご多幸を心より祈ります。私もこれから元気に毎日を送り、

又皆さんと逢える日の来ることを楽しみに生きてゆきます。 ではごきげんよう。

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最近発売された幻だった白鳥の死の映画DVDと、その他発表会での私の振り付け作品のダヴィング幾編かが届いた。送り主は渡辺昌子ちゃん。
「有り難く頂戴いたします」。
先日、NHKに務めている大川裕司さんに一人目の子供、男子が生まれたとの知らせ。
「お目出とう!!」
家にずっと閉じ込められていた私を車椅子でタクシードライヴに連れて行ってくれて、桜満開の都内を周り、「銀座シックス」のステーキハウスでヒレステーキをご馳走してくれた露木優子ちゃん。

いづれも私の永年の教え子たちだ。優子ちゃんはラジオ局の朝ワイドのパーソナリティを務めている忙しい身ながらこの回顧録をパソコンで打ってくれている人だ。
スタジオを閉めて7年になるのに、その他大勢の私の教え子たち、悦ちゃん、矢部さん、恵ちゃん、由紀ちゃん、美枝子ちゃん、喜美江ちゃん、美紀ちゃん、庸子ちゃん、満里子ちゃん、礼子ちゃん、さゆりちゃん、板藤くん、そして有美ちゃん、浩子ちゃん、感謝でいっぱいだ。
それから今も私の心を満たしてくれる学習院時代からの長年の親友、オグこと小倉宮子さん。オグは能楽の囃子方のプロでいらしたので、現在私に平家物語の手ほどきをして頂いている。その他クラスメートのワキサマ、コバ、ハナ、何人かとの交流。この人達に囲まれて毎日楽しい日々を送っている。この幸せの日がいつまでも続くようヘルパーさんに支えられながらも長生きしたいと思う今日この頃である。

感動ある毎日、感謝の日々を送る6月で87才になる私、稲城明美である。