稲城明美伝記

「私の60年におよぶバレエ人生」

稲城明美歴 1934(昭和9年)6月21日生

 

父 稲城勝 

1950年(昭和25年) 急性骨髄性白血病にて42歳で急死。

出身大学は上海の東亜同文書院大学第15回生。院長は近衛篤麿。戦前当時世界を結ぶ経済の一大中心地であった上海で国際環境を直視しつつ、日・中の共存共栄のために必要な人材を養成することにあって、中国と日本の全国から長崎県代表として一人のみ選ばれた。

戦前から戦中戦後実業界で活躍中激務の中倒れた。

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    88才 米寿祝い      稲城 勝 1950.4月 42才

 

母 稲城奈美子 (旧姓 大江波江)

 2009年(平成21年)100歳にて永眠。

母の実家(大江氏)は歴代の御典医頭を務め、はるか祖代は1336年延元元年、征西大将軍懐良親王に共奉し京都より九州に下る。

初代は山城国藤原氏藤原備中守孝範と家系図に記されている。

懐良親王とは後醍醐天皇の皇子で九州統治のため送り出され側近の五條頼元以下つき従の者はわずか12名。その中の一人とされている。

 今より七代前、大江春塘は蘭学者で江戸にて当時の蘭学事始の時代に応じ、バスタード辞書(蘭和辞典)を編纂し(1822年)表紙には名前が表示され、現在国内に7冊オランダライデン大学にも残り、教科書として使われていたと云う。

祖母千里の祖先には、清原家があり、清少納言の存在が明らかにされている。清原家では最近清少納言の直筆が発見されたと聞いた。

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          家族写真 明美幼少期

 明美は昭和28年学習院女子部高等科卒業。

在学中現上皇陛下の一級下で目白の本院にて度々お姿をお見受けする機会があり、又即位なさった令和の天皇とはご一緒にテレビ朝日の「題名のない音楽会」に二週にわたり出演したこともあった。陛下はまだ学習院在学中で、ビオラをOBオーケストラにまじって演奏なさり、私はやはりOBの混声合唱団で曲は「メサイア」だったと思う。当時四十代の頃。

この度即位の礼のテレビ中継を見ていてなつかしく思い出し、陛下はその時と少しもお変わりにならず、お年から云えばお若く見えると思った。

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             母と学友たち

 過去に戻り、幼少の頃見た仏映画パリオペラ座のバレエ学校が舞台の「白鳥の死」に刺激され、主役のバレエ学校生徒(オペラ座バレエのジャニーヌ・シャラの幼少期)にその頃の明美の顔が似ていると云う周囲の評判から、子供心に大きくなったらバレリーナになると決めていた。

母がスタジオを開いてくれたのが二十歳誕生日前、昭和294月だった。父が亡くなって4年後になる。そして平成26年に過労から体調を崩し、八ヶ月の入院を機に80歳にてスタジオを閉鎖、60年に及ぶ私のバレエ人生の歴史に幕を下ろすこととなった。稲城明美バレエアソシエーツ・バレエ研究所は終わった。

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 その60年に渡るバレエ人生を振り返ると、30歳頃股関節に異常をきたし踊り手として生きることを諦め、千葉昭則先生にバレエ理論、教授法、振付法を個人レッスンで20年に渡り学び、数多くの振付作品を、研究生発表会その他自主公演等で発表する。

足が悪くなって踊れなくなっても60年間続けてこれたのは、それ程バレエへの憧憬が深く、ライフワークとしての意志が強かった。そして常に側に舞台照明家の岩崎令兒さんの博識に依るバレエ・音楽・絵画に対するアプローチを共にモチベーションし合った交遊に依ると今にして思う。岩崎さんは私より七歳上で2017年に亡くなった。私が60年間バレエを続けてこれたのは二人の恩人のおかげと思っている。

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  向かって左 千葉 昭則氏   向かって右 岩崎 令兒氏

私の初めての研究生発表会第一回は昭和35年「ピアノファンタジー」。私の好きなショパンとリストの曲を8曲選び、作曲家内藤孝敏さんに曲と曲のつなぎを作曲していただき、まとまった一つの曲に仕上げ、ピアニストの中川知義さんにヤマハホールで演奏していただき、録音して本番用を作った。

行る発表会にはまだクラシックバレエダンサーとして仕上がっていない生徒達が踊るのだから私の持論として、クラシックバレエの古典は絶対にプログラムには入れなかった。 それは伝統あるクラシックバレエを穢すことになり、おこがましくもあり、我々日本でヨーロッパで生まれたバレエを教えている教師がやってはいけない、正しいバレエの伝え方に反すると思う考えを固く守って来た。
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           創立25周年記念

しかし生徒達はバレエを習っているのだから古典物に憧れているのは確かだ。それで本物の物語と音楽を借りて、出演者の生徒の技術にあうだけの振付をして来た。それが我が研究所での「クララとくるみ割り人形」「白鳥の湖ものがたり」「オーロラ姫の結婚式」「眠りの森のものがたり」「妖精の贈りもの~シンデレラ」「コッペリア人形のおはなし」等と題名をかえて、それぞれ生徒達に合うような配役と振付をして来た。

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           設立50周年記念

 平成14年、第28回50周年記念発表会においてはフルートの佐藤和美氏にモーツァルトフルート協奏曲を世田谷クラシカルプレイヤーズのオーケストラと共に演奏していただき「メモリアルバレエブラン」とし稲城バレエとしては初めて古典物「ジゼル二幕」を決断した。それは30年たゆまずレッスンを続けて来たある研究生の一人に、まだ充分ではないけれど勉強のために踊らせてあげようと云う気持ちになったからだ。渡辺昌子さんである。

それ以来の発表会では「くるみ割り人形」「オーロラの結婚」「白鳥の湖二幕三幕」と古典物が続いた。平成24年第33回、再び「ジゼル二幕」が今思えば稲城バレエ発表会の最後になった。古典物の振付・指導は講師として日曜クラスを受け持っていた千葉勝男さんに担当してもらい、私は他のオリジナル作品にあたっていた。

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                                        白鳥の湖 第三幕

 毎回発表会では、幕あきに必ずバレエブラン(白いバレエ)で「バレエへの招待」のタイトルで、モーツァルトやバッハ等の音楽を使い、子供も含め出演者全員で顔見せとして出演する。その後は中・高生含めた児童科の作品、大人組の作品とたまには適応した研究生がいる時は、そのための小品等を私一人で振付をした。

その中でも力をそそいだ記憶に残る大作をいくつかあげてみよう。

ハウプトマンの戯曲より「沈鐘」をラフマニノフの交響曲を使って、俳優の細川俊之さんのナレーションを入れてわかりやすくした一幕三場。シンセサイザーの喜多郎の「古事記」を使い、史実をもとにした「区の花さぎ草伝説」一幕三場。発掘された500年前の人質のミイラ化した少女をインカ崩壊までの「悠久の時空を超えて~ 哀しみのフワニータ」曲はインカ文明の文化遺産のCDを使った一幕四場。「夢宇宙」はジャン・ミッシェル・ジャールのシンセサイザー。
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   「区の花さぎ草伝説」
何度か再演した子供が主役の「ヘンゼルとグレーテル」はフンパーディンクのオペラ全曲を編曲し、50周年の時はエレクトーン3台の生演奏で一幕三場。

「ディズニーコレクションオンステージ」は小さい子供から中高生迄。ショパンの曲を集めての大人のバレエブラン「ショパンはお好き?」
テロのスペイン交響曲「花たちのフィエスタ」
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         「ヘンデルとグレーテル」

こうやって書いてゆくと思い出す作品は枚挙にいとまがない。それ程発表会のための作品造りは、楽しみであり好きであり力を入れて来た。完成した作品を舞台で生徒達が踊っているのを見る時の醍醐味と幸せ感は、何ものにも替えがたい思いだった。

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               「ディズニーコレクション オンステージ」

 ここで母の事を少し書かせていただく。母は30歳後半で未亡人になり、父の時からのお手伝いと女だけ三人の暮らしになったが、生まれながらの母の明るさと社交性とおおらかさから、父を亡くした一人っ子の私は淋しい思い知らずの楽しい日々が続いた。私は二十歳で母がスタジオを開いてくれたが、まだ二十歳の若い私を母は全面的に助けてくれた。生徒の親との接触などは尤も苦手で、その頃の二十歳は今の若い人達と違い、特に私は全く世間に出たことがなかったため、母の助けは有難かったと今にしてつくづく思う。

知り合いの子供達を生徒に誘ってくれたのも母で、私はバレエを教える以外は何も出来ずしばらくは母と二人三脚で過ごし、その内私は私、母は母とそれぞれの役割り分野も出来て来て、やがて私は一人立ちすることが出来た。

又母は生徒達からも慕われ、100歳で亡くなるまで愛称のマミと呼び、毎年みんなで母の誕生日祝いを開いていた。

私も母を喜ばすために車いすになってもいろんな処に車で旅行した。京都や佐渡にも行った。年末年始は必ず温泉宿で過ごし都内のホテルの時もあった。ハワイにもディズニーランドにも行き母はとても喜んだ。

母と二人だけの生活は60年におよんだが、私は母を喜ばせることにつくし、悔いがない。そして私の60年のバレエ人生において、母なくしては語れない思いでいっぱいだ。

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                                発表会後 母と私

 昭和6152歳、レッスンを子供の頃から続けて来て大人になった研究生達に、踊る場を与えるために自主公演の舞台を企画する。かねてからその意思を強く持っていたチャリティーを目標に加えて、コンサートを企画する。

思えばかつて第2回研究所発表会(昭和36)の折本番の前日に、世田谷区の母子家庭の施設の方々をお招きしたことがあった。その時のプログラムは親子の観客に合うように、プロコフィエフの「ピーターと狼」とフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」であった。

トンボ鉛筆から全員に鉛筆のプレゼント、河合楽器からエレクトーン、蛇の目ミシンよりミシンをそれぞれ一台ずつ提供してくれて、施設の方々に抽選でお渡しした。又、施設の皆さんに会場までくるバス代として、当時の佐野世田谷区長から交際費より提供された。以上の協力者への交渉は、全て情熱をもって稲城個人が当たった。27歳であった。

 

 それから時を経て、昭和61年の時も協賛の企業にチャリティーの趣旨をとき賛同を得て、カネボウ株式会社、ニッカウヰスキー等から多額の協賛金を受けチャリティーサロンとし、命名を当時の世田谷区長大場啓二氏に「ブルーメンフェーエン」(花たちの精)と名付けられた。

ヨーロッパの王朝サロンで始まった音楽とバレエを、貴族たちが目の前で演奏家の曲を生で、又目の前で踊り手の演技を見ていた頃の少しでもその雰囲気をお客様にふれていただきたく、そして私自身もその再現の試みに夢を持ってサロンコンサートを企画することになった。

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            学友や先輩と母                        貴賓館サロンにて
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          お客様とメヌエットを踊る

 第1回チャリティーサロン「ブルーメンフェーエン」を旧竹田宮廷貴賓館を全館借り切り、サロンにてフルート佐藤和美氏、ハープ渡辺かや氏を迎えて生の演奏での新しく振付たバレエの小品集を、谷桃子バレエ団よりゲストを交えて研究生達と共に披露した。生の音楽で踊る幸せを研究生達に感じてもらった。

寄付先は「世田谷区青少年憩いの家」と群馬の「横堀ホーム」にて役立てていただいた。第1回のチャリティーサロンは理想を追った企画であったため、採算度外視し大変な赤字をかかえた。それは覚悟の上だったが、しかし寄付分は別枠で皆様からいただいたので全額施設にお渡しし、後程全員に領収書の写しをお送りしている。これは私のポリシーであった。

 第2回は赤坂のプリンスホテル旧館。元李王廷でこれも全館借り切り、サロンに舞台を仮設して、小島章司氏の創作フラメンコで能楽の「葵の上」から「瞋恚の炎」、次には沖縄古典音楽と古典舞踊等4回まで続け、青少年憩いの家と横堀ホームその他で協賛はカネボウとニッカウヰスキーそして松竹歌舞伎座と続いた。
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       佐藤 和美氏夫妻  世田谷美術館にて

その間シリーズ「音楽とバレエ」としてフルートの佐藤和美氏、ピアノの佐藤文子氏ご夫妻の生の演奏とバレエを、世田谷美術館、虎の門ホール、スタジオキャロル等と続けた。同時に日本バレエ協会の夏と冬の定期公演に、私の振付作品を毎年研究生達と児童科の出演も続けられた。一方、昭和63年に以前からの知己のあった童謡歌手川田正子さんと「ファミリーコンサート天使のしらべ」童謡とバレエのファンタジーとして共演、虎の門ホールと所沢市民会館で4回に渡り母子家庭を招き、コロムビア、ヤマハ、音楽の友社、トンボ鉛筆、バレエ用品の藤門商事と協力を得た。
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             新スタジオ

 1989年平成元年1月に多目的スタジオ「プラッツクゥエレ」(泉の湧き出す処)当時世田谷区長大場啓二氏命名により新築、9月よりオープン記念としてクオリティーコンサートを開催「三人のミュージシャンと一人のパントマイヤーによる音楽劇」、バロック時代の音楽と宮廷舞踊「ヴェルサイユの光と影」「ガイ氏即興人形劇場」バレエ「花のメッセージ」等半年に渡り上演した。

このコンサートで世田谷の施設の方々をお招きして、大場区長より「多くの体の不自由な人と児童を招待し区民に夢と希望を与えた」と感謝状をいただいた。
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 同年「能とバレエの晩餐会」をホテルエドモントの大広間で開かれた。世界で初めての能とバレエの融合とマスコミで報じられた。それ程高い評価を受けたのも、後年亡くなられた総合無形文化財、観世流能楽師・中森昌三氏との意気投合であり、一流の囃方を揃えて下さり、昌三氏自身も能を舞って下さったことに依る。ホテル側も大広間に能舞台のスペースを仮設してくれた。
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能楽を音に使いバレエを作品にしたのは「天鼓」と「二人静」であった。

「二人静」は前年バレエ協会夏の定期公演に出品した作品であったが、この能楽は録音によるもので、学習院時代の親友、能楽師・佐藤宮子さんの謡と囃方グループにより演奏されたものである。

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佐藤宮子さんとの事を少し書きたいと思う。旧姓が小倉さんでオグと云う愛称でクラスメートの中で親しまれていた。以下オグと書く。

私が能楽を使って「二人静」を振付した能楽との出会いは、学習院以来からのオグとの交流からだ。能楽師であったオグがフラメンコの小島章司氏の創作能の「葵の上」よりの「瞋恚の炎」の能楽の囃方を演じた舞台を見たことからに始まる。それはフラメンコではあったが、小島氏の創作が非常に能楽を見事に扱ったことに刺激を受けた。その能楽のテンポがバレエの動きに合うのではないかと触発された。そしてオグとお仲間の囃方の人達によって録音され「二人静」が生まれた。
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私の能への探究はそれだけにとどまらず、昔父と親交のあった方の甥でいらした、中森昌三氏をオグに紹介していただき、私としては一大イヴェントである能楽とバレエの融合の舞台が生まれ、そして新しく「天鼓」が生まれた。能楽は母の実家が医家であるにもかかわらず能一家であり、祖父祖母兄妹共に能舞台に立っていた事から、能に興味と親しみを持っていたことも関連していたと思う。

 オグとは今は亡き夫君お医者様でいらした佐藤蕃氏と主治医をして下さっていたやはり亡き母と交えて親しいおつきあいが続いた。現在もオグとは深い交流が続き、先日二度にわたりおいしいにぎり鮨を持参して、動けない私の所に来て下さり、楽しいひと時を過ごし又来て下さると約束して下さった。

今でも決して忘れてはならない事は、母が100歳で亡くなった時オグがその日から一週間武蔵野市から毎日通って下さって、主だった何人かの生徒達といろいろと事にあたって下さった。

この事は今でもその恩義は終生忘れる事はないであろう。

 

このようにしてチャリティー企画を続けてきたが、入場料収益は全て寄付にまわし、公演の舞台の実費は協賛金と自費でおぎない利益はゼロだったため、多くもない自己の財産は全く使い果たした。

そこで私を救ってくれたのが、母が実家より相続した九州の別荘と山を勝手に全て手放し、そのお金でつなぎとめた。

事後母に話したら、欲のない鷹揚な母の返事は「ああそう」と云ったきりで黙認された。スタジオの新築もそのおかげであった。

 

 平成3年、協賛企業の私への協力をもっと有効に使うため世田谷区の二つのバレエ団、貝谷八百子バレエ団の加美早苗先生と()井上バレエ団の岡本佳津子先生をお誘いし「世田谷の芸術文化の興隆と社会福祉への積極参加」をスローガンに、三団体頭文字の「KIIバレエフェスティバル」を発足。毎年世田谷区民会館で三団体それぞれの作品を発表し入場料千円の安価で始めた。

ここでもカネボウ、松竹歌舞伎座と共に東京電力世田谷支社、東京駒沢ライオンズクラブ、朝日生命、バレエ用品チャコット等からの協賛を受け、世田谷区の施設やボランティア協会等に寄付を続け、障害者施設の方々を招待したりした。

平成4年、大場世田谷区長(当時)より「地域文化の興隆と福祉施設に大きく貢献」と三団体に感謝状を受ける。平成5年と6年に寄付先の世田谷ボランティア協会より「多額なる寄付による多大なる貢献」と感謝状を三団体に受ける。

そして平成11年迄7回の公演を続け、我々三人はほとんど持ち出しのボランティアであった。

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その間平成64月三人で「世田谷クラシックバレエ連盟」を結成。区内のクラシックバレエ指導者に「世田谷区の芸術文化の発展の為、区民にバレエに親しんで貰うと云う主旨」を理解して下さった先生方25人の方達が集まった。こうして世田谷区のクラシックバレエ指導者のユニオンが生まれた。

一番先輩の加美先生を代表に三人が常任理事として運営に当たることになる。先生方と会議を何度も開き、公演の演目、振付者、バレエミストレス出演者のオーディション等、皆ヴァイタリティを持って取り組んでいった。

優秀な先生方ばかりの集まりで、連盟は毎年毎回数を重ねるごとに立派に成長してゆき、私達の念願であったオーケストラとの共演の全幕物が実現した。

大場区長のお力添えで、世田谷区主催の「白鳥の湖」全幕と世田谷フィルハーモニー管弦楽団との共演で、昭和女子大学人見記念講堂で二千人以上の観客を集めて開かれた。まさに快挙であった。
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又同時に三軒茶屋に新しく建立された世田谷パブリックシアターにて、連盟の公演を毎年429日に世田谷財団によって企画され、先生方こぞって力を注ぎ現在も華やかな舞台を区民の方々に見ていただいている。

こうして5周年、10周年、15周年、20周年、世田谷フィルハーモニー管弦楽団と共演し「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」等チャイコフスキー三大バレエ全幕を人見記念講堂で開催して来た。令和元年で22回に到る。

今思えば私が個人的に大場区長に「KII」の経済状況から区民会館の使用を助けて欲しいとお話しした時に、三団体では区では何も出来ないが、世田谷全体をまとめれば、区が少しは介入出来るかもしれないとヒントを与えて下さった事が連盟の発祥につながった。私は平成26年にスタジオ閉鎖でバレエ界引退のため、現在は顧問として外側から見守る立場でいる。

 現役時代の受賞歴。平成15年社団法人バレエ協会より「貴殿の功績を讃え舞踊文化功労章」を受ける。平成19年「世田谷の文化の創造と発表に多大なる貢献」世田谷区制施行75周年にあたり熊本区長(当時)より功労章を表彰される。

 

 こうして早足で一気に振り返ってみると、始めより主旨を貫徹し、順風満帆で来たように見えるが、その間には私にとっては思わぬ人生をゆるがす程の重大事件が襲って来た。その発端となるのは、たった一人でチャリティーと共にバレエやその他の舞台企画を精力的に続けて来たが、形あるものが欲しくなってきたのだ。思いついたのが何の知識も持たない会社組織だった。しかしそれが大きな失敗の始まりだった。

 学校を出てからは、世の中に出ていっても良い環境に囲まれて来たので、過酷な社会のこわさを知らず、持ち前のお人好しと人を信じる性格が禍した。平成元年、増改築による多目的スタジオと本社屋を建築と同時に株式会社稲城企画を立ち上げた。手伝う人が現れて、今まで付き合いのなかった人なのに会社を全て任せてしまった。

それ以来今までと世界が変わり、知らない内にあっという間に小切手詐欺や住い付スタジオと土地の乗り取りにあってしまった。私など赤子の手をねじるようなものだったであろう。3年間の裁判の末、裁判官から相手に賠償する力がなくなっているので、二千万円の損害賠償を取ってあげるから「もうあきらめなさい」と説得され、思い切りの良い性格から、3年間の法廷での裁判に疲れ切っていたこともあり、あっさりと放棄してしまった。その時は60歳になっていた。

二千万円で新たに出直そうと決心したのだが、相手の能力不足のために手にしたのはたったの三百万円でそれも弁護士料に消えてしまった。バブル崩壊の兆しが始まっていたが、最頂期にはそのあたりは二億円はすると聞いていた。

 

 それでも私はめげず、すぐに私の戦いが始まった。一刻も早く研究生がお稽古の出来るスタジオを用意する事、そして母と二人の住まいを確保する事に不動産屋さんを廻り、やっと経堂駅近くの赤堤にマンションの1階に貸事務所が空いており、早速契約を結びリフオームに取りかかった。床を10センチ上げて弾力がつくよう張り替え、バーの取り付け、防音装置や更衣室の設置、グランドピアノをアップライトにかえる。更衣室含め25坪の広さしかなかった。そしてその近くに母と二人で住む駐車場付きの小さなマンションも契約し、平成6年10月に全ての引っ越しを終えた。新スタジオ建築からわずか6年しかたっていなかった。この事件は母にはいっさい知らせず、隠し通して来たので、引っ越しに訝る母に、駅から近くて研究生やスタッフが通うのに便利だからと、またもや鷹揚な母を納得させた。あの土地や家はどうなったのとは、欲のない母からはいっさい聞かれなかった。この一連の大事件は、あまりに世間を知らなさすぎた私としては、ここまで成し遂げた事に私は少し成長したと思った。

 

 新スタジオから出発して新しい私のバレエ人生が再び始まった。「KII」も続き「世田谷クラシックバレエ連盟」も発足し、発表会の作品造りにも精力と情熱を燃やし、生徒達も成長していった。最後まで私の作品を美しく透明な舞台に仕上げて下さったのは、岩崎令兒さんの照明デザインだった。そうして20年が過ぎた。

 

 平成26年第34回発表会は10月に成城ホールの抽選も当り、かつてご一緒にコンサートを続けて来たフルートの佐藤和美先生からの有難いお申し出があり、奥様と演奏して下さると云う事が決まっていた。幕あきのバレエブランにはフルート協奏曲、そして私の忘れ得なかった第1回発表会の「ピアノファンタジー」を、再びリストの「ためいき」をテーマに私の大好きなショパンとリストの曲をフルート又はピアノで演奏していただく事になり、打ち合わせに百合ヶ丘のお宅に伺っていた。研究生達は生の演奏で踊る事になり、この上もなく贅沢なもったいないような発表会になりそうで、胸は躍っていた。
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早速何でも相談していた岩崎先生に、この事を報告し、とても喜んで下さった。

その他の作品は、その時の出演生徒は子供は少なく大人がほとんどだったので、全員ソロで踊らせてあげようと思い、それぞれに曲を選び振付を始めていた。3人程振付は上がっていたが、5月頃から体調が思わしくなくなり、振付を思考するにもつらくなり、余り進まなくなって来た。小品であっても20人のソロの初めての曲の振付は苛酷になって来ていた。スタジオに通う事もつらくなり、日曜クラスのみ運転は危ないのでタクシーで行き、他の曜日のクラスはとても行けず、私の助手をしていた小林悦子さんに任せるしかなかった。

私の体と神経は弱くなり日を追って疲労を増していった。6月の私の誕生日は例年のように経堂のレストランで開いてくれて皆集まってくれたが、私は元気がなく申し訳ない気持ちでいっぱいだった。7月になると私はいよいよ限界になり、主治医からうつ病と診断され、専門医を紹介され、何度か診察を受けたが、もう一人で家に居る事は無理で、限界だと強制的に入院させられた。

ひと月だけ病院で三食いただいてのんびりと過ごせば元通りになれますと云われ7月末に入院した。

まず私の心を襲ったのは生徒達のレッスンと発表会の準備の事だった。しかしどうしようもなく、一ヶ月で帰って来るのだからと生徒達には自習で頑張ってもらうより仕方なかった。

しかし入院してすぐに胆嚢が腫れている事が検査でわかり、24時間点滴を一ヶ月続けて腫れをひかせてから摘出手術をする事になった。万事休すと云う心境にならざるを得なかった。私のうつ病の原因はスタジオの維持が3月から経済的に難しくなって来ていて悩んでいた事から来る。

 病院のベッドに釘づけの一ヶ月もうスタジオを閉めるしかない、私のバレエ人生を終えるしかないと思わざるを得なかった。私の体や精神力だけでは、あの高額の家賃のスタジオを維持してゆく事は、今ではとうてい出来る事ではない。

そうして病院に何人かの主だった生徒と不動産屋さんが集まり、9月にスタジオを閉塞する事になった。発表会も中止になった。私は断腸の思いだったが、突然レッスンも発表会も出来なくなった生徒達の思いはいかばかりかと、ベッドの中で苦しい思いが続いた。苦しくて出来たらこのまま病院で死なせてもらいたいとまで思った。

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 バレエに一生を捧げるつもりで、何事にも前向きで勇気を持って突き進み常にトライして来たのに、思いがけなく意に反して私は80歳でバレエ人生を終える事になった。残念だった。もう一つ残念な事、それは遂に結婚しなかった事だ。

結婚願望がなかった訳ではなかったが、何度もその機会はあったのに、その都度バレエを優先してしまったのだ。今つくづく考えると結婚生活は望んだが、主婦にはなりたくなかったのだろう。それとは矛盾しているが、子供だけは産んで育てないと、本当の女性にはなれないと思っていた。

人生も終わりに近づいた70歳近くになって、私の望まない主婦にならなくても何でも私の我が儘を許してくれる人と婚約した。その人は同じ学校の小学生の頃より、それぞれの人生の間もつかず離れずのつき合いを60年ばかり続けて来た幼馴染みで、多分二人とも初恋を感じていたのではないかと思う。

母がよく二人を連れて音楽会やお芝居に連れて行ってくれていた。

しかし、結婚の約束の後、間もなくその人はこの世を去った。

 

 こうして私は85歳の今、素晴らしかった人生の思い出と共にたくさんの人達のお世話を受け、又たくさんの人達との交流の中で毎日を楽しく過ごしている。

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 母の85歳の頃を考えると、今の私と違いちゃんと自分の足で歩いていた。

明るくて天真爛漫、人に優しく親切で心配りがあり、顔も魅力的であでやかで、笑顔が可愛らしく、全く穢れのない少女のようで、誰もが親しんでくれた。

敵のない人であった。

80歳のお祝いに母が毎年年賀で送っていたエッセイを集めて母の沢山の写真と共に出版したが、今読み返してみても、そのデリケートな観察眼と感受性豊かな文章に接しほとほと感心する。私にはとても真似出来ない。私は母とは比べものにならないほど全てに敵わないと思っていた。私とは全く違うタイプで私は父似だったようだ。

母が100歳、私は75歳で二人の生活は終わりをつげた。もう十年の時がたつが、壁に飾られた肖像画や写真を見る度母は今も私の心の中で生きている。

私の生ある限り心の中で生きている。

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 最後にこれだけは決して忘れてはならない事、はずしてはならない事に、私とバレエの弟子達、研究生達の長年にわたる絆がある。今こうしてバレエ人生を振り返って書いているが、スタジオを閉塞して5年になる。私がバレエを教えなくなって5年になる。なのに現在令和元年になっても、私の誕生日を何十年も前と同じくみんなで祝ってくれている。毎年かかさず。

昨年迄はどこかで集まってパーティーを開いてくれて、ことに昨年などスタジオを借りて私に何人かで踊りを見せてくれた。

私の振り付けた私の大好きなショパンの「ノクターン《遺作》」その他バレエブランなど、過ぎ去った思い出が走馬燈のように心をかけめぐった。渡辺昌子さんが毎年中心になって計画してくれているようだ。実は前に私の研究所に講師としてクラスを受け持ってくれていた千葉勝男先生のスタジオに、10人以上の人達がレッスンを受けて続けていたのだ。

今年は脳梗塞で歩けなくなった現在の私のために、我が家に皆でバースデーケーキを持って集まってくれた。他の人からは当日お花が次々と送られてくる。カードも届く。中には毎年母の日にお花を送ってくれる人もいる。なんと私は果報者かと涙を禁じ得ない。私は一生バレエを教えて来て良かった。弟子達は宝物だとその都度感激で胸がいっぱいになる。

交流のある研究生の中には今年70歳になる人も何人かいるようだ。結婚などでバレエをやめて40年以上もたつ人達もいる。何十年も前の生徒露木優子さんは所沢の遠くにもかかわらずしばしば私を訪ねてくれる。車椅子の私を歌舞伎座に連れて行ってくれた。又、目白の学習院で開かれた同期会にも行ってくれた。

前にフルートの佐藤先生のハウスコンサートにも一緒に行った。彼女はBSの放送局で朝ワイドのパーソナリティーを務め、朗読会も度々出演しクラシックバレエ連盟の公演会場のアナウンサーでもあり、大変忙しい体であるにもかかわらずである。更に若い頃から悪性リンパ腫やその他の定期検査をかかえた体で頑張っているのだ。彼女には頭が下る思いだ。

 

 こうして私のバレエ人生は沢山の後援者、理解者、ゲスト男性舞踊手たちスタッフの方々、連盟の先生方、そして生徒達に助けられて来たのであるとつくづく思う。今は生活保護で私を支援してくれる世田谷区、生活に不自由になった私を毎日助けてくれる「介護事業所向日葵」の横溝ケアマネージャー、ヘルパーさん達、あんしん事業の方々、又リハビリの療法士の方々、訪問医師の方々、週1で通っているデイサービスのスタッフの方々、その他の皆さんには感謝でいっぱいだ。そして体がきかなくなって外に出られなくなった私のために、何人もの学習院時代のクラスメートがお昼を持って訪ねてくれる。こんな嬉しくて楽しい事はない。

 

 85歳の今、いずれいつかその時が来たらこの世とお別れする事になるのだが、その最後の時には、私の歩んだ人生に誇りと喜びと感謝とそして幸せを感じるであろうと思っている。

 最後に大事な事を記す。亡くなって母校に献体をなさった我が尊敬する佐藤蕃先生に刺激を受けてずっと考えていた処、奥様であるオグもその意思があり、登録証を見せて下さった事で決心がついた。私が死んで尚、医学と世の中のお役に立つ事が出来るとは、なんと素晴らしい事か。近々その手続きの説明にオグが来て下さるそうだ。私のバレエ人生60年の道程に数々のチャリティーやボランティアにかかわって来たが、人生の終りに自らを奉仕出来る献体、これこそ「献体=ボランティア」ではないかと決心した私の気持ちに満足を憶えている。

 私は今現在、全てに満足と幸せを感じながら、このバレエ人生を振り返る文章をここで終る事にしよう。

                     令和元年 霜月11
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